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 TOP > 70周年記念祝賀会 > 3. 当日の出席者インタビュー
 
70周年OB総会
1. 開宴 〜 挨拶   2. スキー部クイズ 〜 表彰・現役紹介   3. 当日の出席者インタビュー
 
【3. 当日の出席者インタビュー】
宮崎充弘 4部
1977年卒 ノルディック
今まで3部だったのが、新しい4部というのものを作った。そのまま4部になっていったのが3年の時です。一番印象に残ったのは東奥日報に名前がジャンプと複合で二つ載ったこと。平山さんが参加した夏合宿の時が一番の思い出だった。あの時は鬼だった。
それ以外夜の、宴会の時も鬼でした。頑張れるということが今に生きていると思います。
池上栄一 4部
1977年卒 ノルディック
スキー部にいてよかったことは、いい先輩、いい後輩にめぐり合えたことがいい。
そして一緒に頑張れたことだと思います。
松田博久 4部から3部
1984年卒 ノルディック
渡辺が先陣切って入賞してくれた。渡辺がいけるんだから、みんないけるだろうということで気合を入れガンガンに行っちゃいました。とらぬ狸の皮算用をしていたんです。おれは優勝するからとかホラ吹いていてたら、それが現実になった。2校ずつしか上がれなかったが、たまたま3部の枠を増やすということで3校あがれるとなった時に3位になった。運もあった。やればできるんだとスキー部で教えてもらった。
渡辺篤 4部から3部
1985年卒 アルペン
ふだんの練習も思い出があるけど4部から3部に上がったのが思い出です。みんなが勢いがある一つの塊になって瞬間に実現させるたのは、やっぱりチームワークです。競技でつみあげてポイントを取る。百何十校あって、たまたま3位に入った。理不尽なトレーニングは一杯あった。空気いすとか、ボネとか。それが3部昇格の原動力となった。インカレのムードもよかった。今日も楽しい思い出。仕事で忙殺されてしまい、つらくなった時にあんだけ頑張ったのだから屁の河童だと思える。若い人も一生懸命ガンバって仲間を大事にしながら今あることを噛み締めて頂ければ。
森田卓二 3部
1987年 アルペン
2年、3年の時、インカレが妙高高原赤倉だった。3、4年の時、何年かぶりに燕ハイランドロッジで1週間合宿に入った。すごく宮沢さんがよくしてくれて少ない費用でステーキを出してくれたり、終わった時にお酒を差し入れてくれたり、息子さんが青学でスキーをしていた。それが2年続いて、それ以外は合宿所が違って北海道の音威子府だったり、そこは寒いところで氷点下30度だったり。続けてOBのところに世話になることは少なかった。アルペンでは僕らは得点できなくて距離、複合、リレーで頑張って何とか落ちもせず3部に残留したままだった。あとは先輩に酒を飲まされた。入部の儀式が1年の夏合宿で丼の底に部員章を置いてウイスキーと日本酒、ビールを混ぜたものを一気飲みして口で部員章を取るという。今やったら問題になりますね。私は口で部員章を受け止めて、そのまま意識がなくなり、朝起きたらゲロまみれだった。仲間とか先輩とか人間関係ですよね。遊ぶのも応援に行くのも今だに続いています。
塩見恭司 3部
1992年卒 ノルディック
3部の時に私が3年生の時にリレーで優勝することができた。ノルディックチームだったんですけど人数も多く、結構充実していた。バブルの最後の時代を過ごして、いろいろ楽しい思い出があった。最初はなんとか3部に残留するためのチームを作っていこうということでしたが、徐々にメンバーが充実していって3部から4年の時には何とか2部にあがりたいというレベルまでになった。各学年7、8人で計30人くらいいた。私は学生の時はアルペンスキーはやっていなくて、卒業してからアルペンスキーをやるようになって、娘が6歳になるけれども妻と一緒にスキーを楽しめる喜びを感じながら冬を迎えています。
後藤博之 3部
1993年卒 アルペン
私の時の年は雪が少なくて日本でほとんど合宿をはれなくて、はじめて韓国のドラゴンバレーで合宿を張った。社会に出てから、つらいことがあってもスキー部の時よりは楽だなと思えることが一番で、今は非常な糧となっています。
林保光 3部
1993年卒 コンバインド
1年アルペンで入った。部がコンバインド、ノルデックに行かないと2部にあがれないことがあって2年の時に転向して、その年リレーで優勝した。
コンバインドとジャンプで入賞という成績を残し、思い入れはあった。ジャンプで怪我して競技生活もストップしてしまって北海道にいた時だったんですけど、土田先輩が駆けつけてくれて北海道で入院していたんですけど、城村さんも東京に帰ってからお見舞いに来てくれてスキー部の先輩方が現役の出来ごとにすぐ駆けつけてくださる姿勢と想いは肌で感じたのを思い出として持っている。今、私の会社ではスキー部というのがあって、みんなで競技とかやっているんですけど、そこに参加したということは自分が4年間ずっと頑張ってきたという気持ちがあったということと、友人が出来た。他の会社にも友人ができたりとか、そういうコミュニケーションが取れたということは、この部に所属していたことが本当に生きてた。それは今でもずっと感じています。
高橋仁 3部から2部
1998年卒 ノルディック

バップといって、部の規範に反すると上からおイタを受ける。その時にやったのは野沢温泉の宿で腹筋400回やらされて、お尻の皮がズルズルに剥けて風呂に5日間入れなかった。それが一番の嫌な思い出でした。いい思い出もあった。私が入学した時4年生が実力のある人ばかりで3部で確か3位だった。それが思い出、その後21世紀枠ということで確か5位で2部に上がった。コンバインドは自分らの代が最後でここ数年コンバインド選手が現れなかったということ。やっぱり社会人になってすごく時代が時代ですから、上下の関係が厳しいことを常に意識できる人間になれたというのが一番のことだと思う。

大場新平 3部から2部
1999年卒 ノルディック
他の大学と交流があったことがよかった。セクトの枠を超え、 8大学とか合宿の試合を通じて他大学の選手と仲良くなれた。
それは今でも生かされている。それが非常にいい思い出です。今でもゴルフコンペに行ったり、遊びに行ったりとか、そういう場をもてているというのが大学を卒業しても生かされていることだという感じがする。
江上智彦 3部から2部
1999年卒
僕らの大学の仲はよかったんですけど、本当に後輩が入らなくて、この70年の歴史が一度途絶えてしまうかもと思うくらい後輩が入らなかった。4年の時に2年と3年がいなかった。1年が3人ですね。白馬、大鰐、いずれも宿に恵まれず、部屋の中に雪が積もったのを覚えています。現役の時に60周年やったのを覚えています。70周年というのは歴史があると思います。
土屋英立 3部から2部
2000年卒
私の場合彼(江上)とは同期だったが、1年学校からはずれた。彼らが2部に上がった後、2部で戦わせていただいた。結果として2部に残留できずに3部に落ちてしまったのが大変申し訳ない思い出。大学時代に出会った友人、他大学も含めて和を持って付き合える。それが大切だった。
鈴木努 3部
2003年卒 アルペン
自分が4年の時、後輩が誰もいなくて、このままでは誰も入らなくなったらスキー部の存続が危うかったとき、勧誘活動は地道に声を掛けたんですけど、やっぱり可能性が高いのは立教高校から勧誘するというのが、一番確率が高いので、上の先輩にも協力頂きながらなんとか入ってもらう。そのあとどんどん増え始めた。やっている当時は練習がきつくてやめたいなと思うときも何度もあって、それくらいつらい思いをしないと得られないものもあると思うが、結果的によかったと思う。
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